AKIRA KUGIMACHI

Sally Born / サリー・ボーン

<back

風景と「多数なるもの(マルチチュード)の動く波」1

釘町彰の表現における風景の問題、彼の作品によって提起された風景の問題とは、宇宙的なもの、鉱物的なもの、植物的なもの、人間的なもののあいだの関係に問いかけるやり方だ。風景の本質を「再び-見る/見-直す」やり方なのである。

釘町彰の絵画は、シャルル・ボードレールが『人工楽園』の献辞のなかで語った「群集/多数なるもの(マルチチュード)の動く波」のなかへわれわれを沈める。彼の作品は、自然のなかで動く無数の諸要素と自然そのものの境界にあって、ある特殊なやり方で表現されている。彼の作品は、この自然そのものを再転写してしまうことを務めとしているのだ。この絵画はある空間を表出することに成功している。その空間とは、西洋における風景画の歴史が、人間の視線を理論化し、視線と風景の構築との関係に固執しつづけることで、置き去りにし忘れてしまっていた空間だ。

ペトラルカのヴァントゥ山登攀から、風景における人間の位置(超越性の具象化であるような)のロマン主義的理論にいたるまで、哲学的な理論と風景との間には密接な関係がある。しかし、時代ごとの風景の観念が絵画にあたえる影響と同時に、絵画となること(絵画による具象化)によって初めて生まれてくる風景というものについても考えなければならない。

自然あるいは土地が、絵画に描かれるような「風景」となるのは、その風景にたいして距離が取られ、元来カオス的な自然のなかで、風景がきちんと枠づけを施されたときである。つまり、風景が表象され、美学的視線によって距離を取って見られたときだ。ここでいう風景とは、あるがままの自然というようなものではなく、あくまでわれわれの視線(美学化された、または美学化する視線)によって構成された、自然の断片なのである。したがって、風景の創出には、それと同時に、世界を見る美学的な視線の創出が必要だ。というのも、注意の対象からの視線の距離がなければ、風景もまたありえないからだ。こう考えると、風景の創出とは、断片的な表象のなかでイメージ化を行う視線の能力――世界をイメージに移しかえる視線の能力を、測定し見積もること(位置決定すること)でもある。つまり、風景の視覚(ヴィジョン)=観照(コンテンプレーション)には、視線が空間と時間のなかで取る位置が、けっして切り離せないやり方で、最初から組みこまれているのだ。絵画とは、空間性と時間性の双方から取り出されてくる断片なのである。

風景がつねに――少なくとも18世紀以来の西洋の美学において――人間的な経験にばかり結びつけられてきたとすれば、それは、風景の制作が、自分の位置から世界を思考・分析する人間の、美学的・芸術的な行為として考えられているからである。これは、ゲオルク・ジンメルが、1913年の「絵画の哲学」というテクストで書いていることでもある。「まず、細部において捉えられた自然の事物があって、そこから生(なま)な印象が得られる。一般的な意味での風景は、誰にとっても、この生(なま)な印象から引き出されるものだ。そして、芸術的な意味での風景が生まれるのは、このようなプロセスがしだいしだいに延長されて、純化されるときなのである。芸術家が行うのは、直接的に与えられた世界のカオス的で無限の波動から、限定された断片を引き出すことであり、この断片を統一体として捉え形成することだ。この統一体は、それ以降、自分自身にのみその固有の意味を見出し、自分を宇宙に連結していたはずの糸を切断して、この糸を自分自身によりよく結びつけようとするのである[・・・]」2。

以上のような(多かれ少なかれ人間中心的な)近代風景画のコンテクストに対して、釘町彰の絵画をかくも興味深いものにしているのは、彼の絵画が、多様な影響を混合させながら、「自然としての風景」そのものを見ること、さらには見直すことに到達していることだ。ここでは、近代的な表現の彼方に突き進んでしまうような「始原の自然」そのものの諸要素を再発見することが、問題となっている。(このような論法を許していただけるなら)このとき自然は、脱-風景化され、彼の絵画は、風景を構成する諸要素の(「始原」という語を使わないならば)「不変性」といえるようなものを再発見するのだ。現実の素材の取り入れや自然の形の抽象化といったプロセスを通して釘町彰が行っていることは、まさしく、「世界のカオス的で無限の波動から」イメージを引き出すことなのである。彼の絵画は、変化そのものから立ち現れ、生まれ出る。マチエール(素材)によるマチエール(物質性)のダイレクトな抽出と、ごく理論的な抽象化のキャパシティという、彼の作品に独特な二重の運動の間で、絵画の作業が実行されることになるのである。

皺のあるライスペーパー(和紙、雲肌麻紙)の、密度の高いマットな表面(物質そのものの凝縮と言うべきもの)のうえに、不定形の空間からの輝かしい出現が浮かび上がってくる。「Waves」という作品は、タイトルを見るかぎり水の世界が問題になっているわけだが、しかし、同様に、石と鉱物によっても作られた作品だ。この作品は、自然の諸要素の物質性のなかに入りこみ浸透するかのように、作られているのである。この画家が特殊な素材 ― 自然の諸要素で作られたライスペーパー(和紙)や顔料(たとえば「Lightscapes」における、貝殻を基にした乳色で光沢のある白。胡粉絵具) ― の探究において行っている作業は、こうした物質性を特徴としているのだ。

したがって、「Waves」や「Lightscapes」のなかで示されているのは、世界の内側において見、理解し、浸透するやり方なのだ。一枚一枚の絵は、不定形な空間のなかでの自然の諸要素に対する、擬似レントゲン(X線写真)的なヴィジョンなのである。このヴィジョンは、宇宙論的なものにも、水質的なものにも、冥界のものにも還元されない。しかし、同時にそれらすべてなのだ。まったく同じ瞬間に ― 実際、ここでは時間の問題が本質的なのだが ― 作品は、自分のうちに可能な逆転の観念を含んでいる。あの「多数なるもの(マルチチュード)の動く波」を含んでいるのだ。ヴィジョンは逆転されうるのであって、波は、空から見た山の起伏ともなるのだ。

彼の作品は、諸要素のこうした混合から構成されている。光の粒、高みから見た起伏、空から見た夜の波や夜の山々、空そのもの、夜空、宇宙、水の深さ。この混合は、それ自体で、表象のある種のモードの逆転なのである。釘町彰は、窓枠から外を見るような視点で世界を眺めたり、表象したりしているのではない。そうした世界は、美学化された視線によって位置を決定され、距離を保たれた世界にすぎない。メルロ=ポンティは、セザンヌの絵画にささげられたその最後の著作『眼と精神』において、「これらの逆転、これらのアンチノミーは、ヴィジョンが事物のただなかで把握され生じることを言うための、さまざまなやり方なのだ」3と書いた。ここでセザンヌの絵画とは、もはや風景に属するものではなく、空間と時間とを見るやり方であり、さらには空間と時間とを思考するやり方なのである。

釘町彰の絵画にあっては、風景の美学的経験における距離・移動の観念が、あらためて考慮し直されている。なにか別の距離というものが問題となるのだ。視線が、示されている対象から分離されがたい、というのではなく、むしろ、ここでは、視線が別のやり方で位置づけられているのである。視線は事物のなかにあって、かつそこに距離を導入している。事物のただなかで、距離を創造しているのだ。このように観点が事物のただなかに置かれている以上、非-観客的な位置が必要となるだろう。つまり、窓枠から見るようなやり方では事物を見ないこと、あらかじめ定まった距離のなかに入らないこと、距離や位置を固定的なやり方で目に見えるものにしないこと、自分を固定的に位置づけないこと、ここではそうしたことが問題となっているのだ。むろん、釘町彰の一枚一枚の絵は、実際上は距離のなかに位置づけられている。しかし、見る者に対して固定した距離を定めているのではなく ― このような言い方が許されるなら ― それぞれの絵が、距離そのものとなっているのである。あらゆる距離でありうる「距離そのもの」として、これらの絵は、さまざまに可能な変換や置換に賭けているのだ。それは、こう言ってよければマチエール(絵の肌理(きめ)、凹凸をもった物質性)による変換であって、高きと低きとが、水平(地平)と垂直とが、変換され置換されるのである。

それはヴィジョンの2つのモードの照合である。簡単に言うなら、一方は西洋的なモード、すなわち遠近法のモードであって、他方は東洋的なモードであり、これは時間的に見て直線的なものではなく、観点の多数性、脱-地平線化されたヴィジョンを許容する。この東洋的モードは、近代的な風景(カスパー・ダーヴィド・フリードリヒの風景)とは反対の捉え方なのだが、しかし近代的な風景とたがいに準拠しあう関係にあり、いいかえれば、それと同格に置かれているものなのである。

釘町彰は、風景を、彼自身の創造的ヴィジョンにおいて捉えている。この創造的ヴィジョンとは、光という媒介によって人間を外部世界と関係づける感覚器の機能そのものが、そのまま抽象化であるようなヴィジョンだ。ここでは、風景の脱-ロマン主義化された(脱-近代化された)ヴィジョンが問題となっている。ランドスケープ=ライトスケープ、風景を作りだす土地と光との結合(コンビネーション)/変形(トランスフォーメーション)だ。空間(土地や故郷といった意味での)は光へと変形される。landがlightへと変形されるのだ。こういうわけで、風景画を作りだすものとは、――端的に言って絵画を作りだすものとは、光なのだ。したがって、メルロ=ポンティが『眼と精神』で書いているように、「光は、距離を取った作用として発見されるのであって、接触の作用にはもはや還元されない」4のであり、接触の作用とは、ひとつの観点から見た対象、唯一の起源から見た対象を明らかにするものでしかないのである。

起伏を明らかにし、露わにし、出現させるあの光、ヴィジョンの締めつけを開き、あの黒のWavesシリーズ(Wavesシリーズの#1、2、3)の黒の縦縞のように、ヴィジョンのさまざまな面を広げ引き離してしまうあの光。ここで、3つのWavesの黒の縦縞は、ひとつの波動を取り巻いているが、これらの縞は、波動をめぐって、または波動の起伏をめぐって、おたがいに遠ざかっているのか、それともおたがいに犇きあっているのか、判然としない。そして、この波動の起伏とは、時間の襞のようなものなのである。

釘町彰によって使用された、揉み紙をされたライスペーパー(和紙)の皺がさらに伸ばされるというプロセスは、絵の内側において、「光」「時間」「距離」を混合させることをめざしている。絵は、瞬間と無限が符合するための可能な空間となり、ジル・ドゥルーズによって展開されたような無限の概念へとわれわれを導くだろう。ドゥルーズは、こうした無限の概念を、襞(pli)のイメージと観念を通して展開した。時間の襞(plis)、時間の折り返された襞(replis)、布地・イメージ・バロックの衣服といったものの襞の折り目(pliure)、無限量のマチエール、諸部分の無限の分割。ドゥルーズは『襞』のなかで書いている。「マチエール=襞は、マチエール=時間なのだ」5。

釘町彰の作品は、マチエールと生(ライフ)の親和力に賭け続け、戯れ続ける。それは、暗黒で無限の宇宙空間における、無限に散りばめられた光の爆発なのだ。

サリー・ボーン(美術評論家・哲学者)

2006年7月